本が出ます

気がつけば二年近く更新がなかったこのブログですが、何もやっていなかったわけではありません。たとえば以下のようなことがありました。

しかし今になって更新するのは、単著が出版されるからです。

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

ここ数年やってきた理性の進化に関係する内容です。このブログのエントリも何本か転用しています。進化論の初歩から始まって、理性の進化のモデル、二重過程説および熟慮的システムの進化、そして科学的思考力の進化まで扱っています。この題材ではあまり話題にならなかった文献なども扱っていて、少しはおもしろい話になっていれば幸いです。

なお発売日が2月14日の予定なので、愛する人への贈り物としてお買い求めいただくのも一興かと思います。*1

*1:これは著者の個人的な意見であり、行動を推奨するものではありません。結果として生じた損害については責任を負いかねます。

家事分担の進化ゲーム

家事分担は結婚している夫婦の間で頻繁に問題になる事柄の一つだ。家事の負担は多くの場合妻に偏っており、妻はそれに不満を感じていることが多い。これは女性がフルタイムの仕事を持つことが例外ではなくなった現在でもそうだ。どうしたこういうことが生じるのだろうか。大浦宏邦氏の著書

社会科学者のための進化ゲーム理論―基礎から応用まで

社会科学者のための進化ゲーム理論―基礎から応用まで

は以下の進化ゲームを使ってどうして一方に家事負担が偏りがちなのか説明している。

家事分担ゲームの概要

このゲームの前提として、家事をすることの利益をb、家事をすることのコストをcとする。そして夫婦両方が家事をしたときのコストはそれぞれc/2となることとする。するとこの場合の利得表は以下のようになる。

夫\妻 家事する 家事しない
家事をする b-c/2, b-c/2 b-c, b
家事しない b, b-c 0, 0

表のセルに二つ数字があるのは、最初が夫の利得、あとは妻の利得を表している。例えば夫婦双方ともに家事をするときは各プレイヤーの利得は、家事をすることの利益bからそのコストc/2を引いたb-c/2ということになる。夫が家事をして妻が家事をしない場合は、夫の利得はb-c、妻の利得はbである。

この場合で静学的な分析を行うと、どういうことがわかるだろうか。家事をすることの利益bがコストcを上回っていることを前提とすると、つぎの三つの状態がナッシュ均衡になる。すなわち、

  • 夫だけが家事をする状態
  • 妻だけが家事をする状態、あるいは
  • (夫:2/3 の確率で家事をする、妻:2/3 の確率で家事をする)という状態

である。

ナッシュ均衡というのは平たくいえば〈それが成り立っている状態から戦略を変えても、手を変えたプレイヤーが得をすることがないような状態〉である。したがってナッシュ均衡がいったん成立すると、双方にとって戦略を変える動機付けがなく状態は一般に変化しない。

この場合家事の負担がつねにどちらかに偏る状態が生じるとは言えない。たしかに前二者の状態のいずれかが成立すると、一方だけが家事をすることになり、双方に戦略を変えるインセンティブが存在しない状態になる。しかし、このような静学的な分析では「いったんXという状態になったときにそれが安定した状態かどうか」ということはわかるが、「そもそもそうした状態に至る確率がどのくらいあるか」はわからないので、そうした状態がどのくらいの確率で現れるかはわからない。またもし第三の状態が成立すると、双方ともに同じ確率で家事を負担する状態が到来することになる。

試行錯誤ゲームの導入

大浦氏はその上で、これを試行錯誤ゲームという学習を取り入れた進化ゲームの一種に基づいて動学化する。ここではまず(1)初期状態として夫と妻の戦略の組み合わせに関して様々な状態を考える。その上で(2)そこから最終的にどういう戦略の組み合わせの状態に至る確率が高いかを考えてみようというのである。これで上で欠けていた「ある状態に至る確率がどのくらいあるか」ということがわかることになる。

このある状態から次の状態への移行メカニズムとして試行錯誤的学習を取り入れたのが試行錯誤ゲームである。このゲームでは、プレイヤーはある戦略を試してみてそれがうまくいけば(他の戦略よりも有利な結果が得られれば)、その戦略を採用する可能性を高め、そうでなければその戦略の採用可能性が横ばいか低くなる。つまりここでは、経験によって夫や妻が家事をするかしないかの確率が更新されていくことを前提として、最終的にどういう状態に至るかを考えていることになる。

ではそうしたダイナミクスのもとではどういう状態が生起しやすいだろうか。じつは初期状態から十分な時間が経つと、どんな初期状態から出発しても、一方が家事の負担をすべて引き受けるという状態に到達することがわかっている。すなわちどんな夫婦も「夫がすべての家事をする状態」か「妻がすべての家事をするという状態」のいずれかに至る。

そしてどちらの状態に到達するかは初期状態によって決まる。つまり初期状態として「妻のほうが夫よりも家事をする時間が少し長い」ということであれば、その差がダイナミクスによって拡大の一途をたどり、最終的には妻のみが家事をするという状況になるわけである。

したがって試行錯誤ゲームでは、夫と妻のどちらかが一方的に家事を負担するという状況が必ず生じ、双方が公平に負担する状況にはならないことがわかる。しかしここでも状況はある意味で公平である。というのは夫と妻のどちらが家事を一方的に負担する状況になるかは初期条件に左右されるだけだからである。

夫の機会費用

しかし、夫の機会費用を考慮すると、妻は夫に比べて大幅に不利になる。ここでの機会費用とは、夫の収入が妻のそれよりも高いことを前提にすると、夫が家事にかける時間のコストが妻のそれよりも高くなってしまうということである(夫が家事にかける時間を仕事にかければ、妻からのよりも高い収入が得られる)。

ここで「夫の高機会費用+学習ダイナミクス」を組み合わせると、広い範囲の初期条件で、「妻のみが家事をする」という状況が最終的に安定的になることがわかる。例えば結婚当初は夫婦が同じ確率で家事をしていたとしても、ダイナミクスを通じて妻のみが家事をする状態に至る。

この考察から大浦氏は、夫婦が同じ時間家事をする状態は安定的でなく、維持するのが難しいことを指摘する。これを解決する手段として大浦氏は、男女が同等に家事をする世帯に補助金を与えたり、夫の機会費用を下げることが考えられると述べている。

そもそも重大な問題とは書かれていない

時事問題には反応しないことにしているが、誰も指摘する人がいないので。

be動詞など中学レベルの指導をしていた大学が文部科学省から注意を受けたという朝日新聞社のニュースサイトの記事が話題だ。これは文科省の「設置計画履行状況等調査の結果等について」を受けた記事だ。この記事は先日から話題になっている。

しかし結論から言うとこの記事は、文科省の発表のごく一部を針小棒大的に強調したきわめてミスリーディングな記事である。

これは上のリンクからたどれる実際の文書(pdf)を見るとわかる。この文書では最近学部等の設置を認可した大学について教育などの状況が適当かどうかがチェックした結果である。

記事の見出しや本文を見ると「講義は中学レベル、入試は同意で合格 “仰天”大学に文科省ダメ出し」「大学としての“適格性”が問われそうなものも少なくありませんでした」とあり、さも多くの大学が授業のレベルについて問題視されたようにみえる。

しかし実際の文書を見ると、英語の授業内容について文科省からの意見がついたのは、調査対象になった502校中千葉科学大学の一校のみである。また授業レベル全体についても、意見がついたのは他につくば国際大学東京福祉大学純真学園大学の計四校のみである。*1これを「少なくありません」とするのは、実態をかなり歪めている。

それどころか亀田医療大学についての意見では習熟度別授業を推奨している。一般に習熟度別授業をすると、成績下位者の授業では中学・高校レベルと大差なくなるので、「中学・高校レベルの授業だとダメ」と文科省が考えているとはいえない。

また文科省自身も上で述べたような授業レベルの件をそれほど重要視していないようにみえる。というのは上の文科省のページの後方には「平成26年度調査結果の概要」として改善を要する主な点について書いてあるが、授業のレベルについては言及がない。

むしろ文書に書かれたほとんどの意見は

  • 定年規程に定める退職年齢を超える専任教員数の割合が比較的高い
  • 定員充足率が70パーセントを切っている、あるいは定員超過する学生を入学させている

といった事柄である。このことは記事にも一応書いてあるが、見出しや記事の構成を考えると読者の頭にはほとんど残らないだろう。実際ツイッターの反応は上の英語などの授業レベルについての件が圧倒的に多い。

なおこの同じ文書についてNHKも報道しているが、記事のトーンは朝日新聞社のサイトのものに比べてずっと穏当になっており、わたしが報告書を読んだときの印象と大差ない。

*1:これらの指摘についても、東京福祉大学は留学生用と思われる日本語科目について、純真学園大学はリメディアル教育科目を正規の科目と見なしたことについてであり、一般に予想される「中学の内容を大学で授業」とは異なる。

才能が必要と考えられている分野ほど女性研究者の比率が低い

という論文が「サイエンス」誌に掲載された(リンク)。

STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)といういわゆる「理系」の分野では、研究者に女性が占める割合が低いといわれてきた。また社会科学系・人文系の分野でも女性研究者の比率が少ない分野がある(経済学や哲学)。この原因をめぐってはさまざまな議論がなされてきたが、この論文はさまざまな仮説を比較して、〈「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」とその分野の研究者が考えている程度〉が、その分野のPh.D.の中に女性が占めている割合と相関しており、その分散をよく説明していることを主張する。これがなぜ重要かというと、多くの人はこれと同時に「女性は知的才能において男性よりも劣っている」というステレオタイプを抱いており、これが上の考えと結びつくと「女性は男性よりもこの分野で成功できない」という考えに至るからである。

この論文が検討している仮説は以下の四つである:

  • その分野の研究者が「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている(著者はこれを「分野特定的能力信念仮説」(field-specific ability belief hypothesis)と呼ぶ)。
  • 男性のほうが女性よりも長時間働くため。この場合長時間働く学科の方が女性のキャリアにとって不利になる。
  • 男性と女性を能力の分布において比べると、男性の方が両端が長くなる。これは男性の方が「極端に優秀な人」の割合が多いことを意味するが、そうした「極端に優秀な人」が集まる学科のほうが、女性が不利になる。
  • 体系化思考とエンパシー思考の違い。学問には体系化(systemizing)思考が求められる学問*1と、エンパシー(empathizing)が求められる学問*2があり、前者の方が男性に有利で後者のほうが女性に有利であるとする仮説。

この「自分の分野で成功するには才能が重要である」というのは具体的には次のような問にイエスと答えることである。

  • 自分の分野の一流の研究者になるには、特別の才能が必要で、それを教えることはできない。
  • 自分の分野で成功するには、ハードワークだけでは足りない。生得的な才能が必要だ。

結果

著者はこれらの四つの仮説が、アメリカの大学における学科ごとの女性Ph.D.の割合の分散をどのくらい説明しているかを調べた。その結果、「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている研究者の程度の分野ごとの違いが、女性Ph.D.の割合の違いと有意に相関しており、また相関係数も高いことが明らかになった(図のリンク)。こうした結果はさまざまな調整に対して頑健であり(例えば回答者の男女比を各分野ごとに1:1にするように重み付けを変えても同様の結果が出る)、この相関が安定したものであることが示唆される。

これに対して他の三つの仮説は、相関が有意でなかったり、全体としては有意であってもSTEM内、人社系内では有意でなかったりと、その相関は弱いものであることが明らかになった。

著者はその後に、「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念と女性研究者の比率をつなぐものの候補を二つ考察する。ひとつは、上の信念を持っている人ほど「女性は高度な学術的仕事には男性よりも向いていない」と考える比率が高かったことである。もう一つは上の信念を持っている人ほど「わたしの分野は他の分野より女性を歓迎していない」と考える人の比率が高かったことである。こうした二つの信念が上の「分野特定的能力についての信念」と女性研究者の比率を仲介していると著者は考えている。

応用:アフリカ系アメリカ人

最後に著者は、この仮説が他の集団にも当てはまるかを考えている。一つはアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人の多くを占める)であり、もう一つはアジア系アメリカ人である。この二つの集団にはステレオタイプにおいて顕著な差異がある。アフリカ系アメリカ人には女性と同様に知的能力についての偏見があるが、アジア人にはそうしたものは見られない。したがって、アフリカ系アメリカ人には先の分野特定的能力についての信念がPh.D.比率に関係しているのではないかとの予測が成り立つ。

結果は予測の通りで、「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念の度合いとアフリカ系アメリカ人の研究者の分野ごとの比率は相関していたが、アジア系アメリカ人についてはそうした相関は見られなかった。

ということで著者は、STEMなどの女性研究者の比率を上げるには、この「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念を変えることが重要ではないかと示唆をして論文を終える。

余談

この論文はかなり話題になったので色々批判的なコメントが出ると思うが、それはまた時間があればまとめるということで、二つ余談。

  1. 論文の筆頭著者のSarah-Jane Leslieは哲学者であるが、この論文は心理学者など他の分野の研究者が書いたと言われてもまったく違和感がない。というか最近は「高度に発達した哲学者は科学者と見分けがつかない」状態になっているのである。
  2. 上で参照した論文のグラフを見ると、哲学では「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている度合いが人文社会系の中で飛び抜けて高く、STEMを含めても数学を含む他の分野を大きく引き離している。わたし個人の感想では数学の方が才能が重要だと思われるので、「哲学者どんだけ才能が重要だと考えているんだよ」「それって大学教育意味ないってこと」「俺は転職しないといけないのか」「ウィトゲンシュタインなどのイメージに引きずられすぎでは」と思わざるを得なかった。

*1:Supplementary Materialsをみると「主題の背後にある原理や構造を見つけ出すこと」が大切な分野。

*2:同様に「人間の思考や感情の繊細な理解」が大切な分野。

冗談と哲学

正月休みの間に留学時に

Plato and a Platypus Walk into a Bar . . .: Understanding Philosophy Through Jokes

Plato and a Platypus Walk into a Bar . . .: Understanding Philosophy Through Jokes

という本をもらって読んだときのメモが出てきた。この本は哲学に関するジョーク集でまあまあおもしろかった記憶がある。ということでそのうちいくつかを翻訳して紹介(なお下ネタがあるので注意)。

続きを読む

哲学専攻は経済的に見合う投資である

と主張する記事があったので紹介

この記事では、PayScaleというサイトの調査を元に、アメリカの大学の学部卒業生を対象にして(したがって大学院に入学した人は入っていない)、専攻によって卒業後の収入がどのくらいになるか、また高卒で社会人になった場合と比べてどのくらい収入が増えるかを調べた。その結果が以下の表である。

専攻 キャリア前半収入(ドル) キャリア中盤収入 生涯収入増加
アート 36,100 57,100 315,500
ドラマ 35,600 56,300 302,400
英文 38,700 65,200 444,700
仏文 40,900 66,700 470,900
歴史 39,700 71,000 537,800
哲学 41,700 78,300 658,900

これを見ると、「収入に結びつかない」と言われている人文系の専攻でも、高卒の人に比べると30万ドル以上の非常に大きな収入の増加に結びついていることがわかる。

記事によればもし自分の州のトップの州立大学に奨学金なしで行ったとしても費用としては8万ドル程度なのだそうで、そうするとキャリア全体を通してみると、哲学専攻は収入の面から見ると十分おつりがくる。

また、哲学専攻の収入は他の人文系の専攻と比べても良好である。人文系だけでなく理系の専攻と比較してみても、哲学専攻の収入は大学の全専攻(130)のうち58位とそれほど悪くない(資料)。

なお北米の大学の哲学科では、学生を勧誘する際にこうした現世的利益を強調することは少なくない。たとえばハーバード大学の「なぜ哲学を?」というページでは哲学科の学生がいかに就職に有利か、またGREなどの試験でよい成績を取っているかを喧伝している。

人種と知能(2)

さて引き続き人種と知能についてだが、今回はニコラス・マッキントッシュが書いた知能についての入門書である

IQ and Human Intelligence

IQ and Human Intelligence

に書かれている議論を紹介する。

マッキントッシュがいわゆる人種間に見られるIQテストの成績の差について述べているのは第13章「集団差」である。この章は主に二つの事柄をあつかっている。ひとつは人種間の成績の差の原因で、もう一つがIQテストが人種などに公平なテストであるかどうかだ。著者の結論は第一の問題については、〈決定的な結論は出せるほどの証拠はまだないが、「人種間の差がほとんど遺伝的な原因からくる」という主張は否定できる〉というものだ(344頁)。そして第二の問題については、巷間言われるような〈IQテストは黒人などのマイノリティに不利になるようなバイアスがあるので、彼らの成績が悪くなる〉という考えに否定的である。

人種間の成績の差の原因

マッキントッシュは最初にLynnなどのような強い遺伝説論者の議論を紹介する。彼らは黒人・白人のIQテストの成績の差の約80-90パーセントは遺伝的な違いに由来すると主張する。

しかしマッキントッシュは環境の変化が大きなIQテストの成績の大幅な上昇をもたらしうることを指摘する。例えば、ケニアの田舎の例を挙げ、栄養状態や教育のスタイルの変化などによって14年間で成績が15ポイント上昇した。このように環境の変化でIQテストの成績は大幅に上昇するので、単に成績の差が大きいから環境要因では説明できないと言うことはできない。

同等の環境で育った人種間の成績

ついでマッキントッシュは白人と黒人の子供が比較的同様の養育環境にさらされた場合のIQテストの成績に関する研究をまとめている。結果を一言で言うとまだら色で、環境説・遺伝説のどちらかに決定的な支持を与えるものにはなっていない。

  • 第二次大戦後のドイツでは米軍兵士と現地のドイツ人女性との間に子供が生まれる例があった。そこで父親が白人の子供と黒人の子供のIQテストの成績を比べると、同じスコアが得られた。この結果は環境説を支持するものであるが、兵士になった黒人は黒人全体のレベルを代表するものか疑念が出されている。ただし有名な知能の研究者であるフリンは、この点は結果に大きな影響を与えるものではないことを述べており、また遺伝論者であるヘルンシュタイン&マレーやジェンセンもこの結果を受け入れている。
  • ミネソタで白人の家庭に養子にもらわれた黒人の幼児についての研究。この研究では養子開始後10年後のテストでも、養子のIQテストの成績は大して上がらなかった。しかしこの研究では、両親ともに黒人の子供が養子に出された時期は遅く、さらに生物学上の親および養親はそれぞれが属する集団の平均よりも教育の程度が低かった。

こうした場合に遺伝論者はしばしば、IQテストの一部に着目し「IQテストの中でも遺伝的な能力差が強く表れるところから両者の差が由来している」と述べることもある。例えばスピアマンは、人種間の成績の差はgと呼ばれる一般知能の差から生じているという仮説を提唱した。しかしマッキントッシュはこの説には否定的である。

例えばIQテストの中でも類似性テストやレイブンマトリックスは遺伝による違いが現れやすいところだが、IQテストの成績を世界的および経年的に振り返ってみると、ここが最も成績が向上した部分である。もしこの50年でわれわれの中で遺伝的組成が大幅に変化したと主張する用意がないのであれば、この成績の向上には環境要因の影響が大きいとみなくてはならない。

こうした点からマッキントッシュは、まだはっきりとした結論は出ないとしても、黒人と白人のIQテストの成績の差が遺伝のみに由来するという見方には反対する。

IQテストにはバイアスがあるか

ここまで人種間の成績の差が遺伝的要因に大部分よるものか考えてきたが、最後にマッキントッシュは〈IQテストで黒人の成績が悪いのは、テストに黒人に不利なバイアスがあるためだ〉という議論を検討している。

著者はここではIQテストの(この意味での)バイアスを否定する方向で議論する。例えばIQテストには、顔を描いた二つの絵を見せてどちらがかわいいか尋ねる問がある。これは何となく白人独自の美的感覚に基づくバイアスのかかった問題のように思われる。ところがこの問題は黒人の子供にとっては最も易しい問題であり、他方白人の子供にとっては3番目に易しい問題に過ぎない。

また黒人の子供は白人よりもまんべんなくIQテストの成績が悪く、特にどの部門が足を引っ張っているということはない。さらにIQテストの成績と学校の成績(数学と読解)の関係についても、黒人白人とも同様の強い相関関係が存在する。

ただし著者はIQテストが文化中立的だと主張したいわけではない。文化によってはテストの意味を理解しないような場合もあるからである。例えば「牛とカラスはどこが似ているか」という問を聞いたときに、それらが属する分類学的カテゴリーについて考えるとは限らない(こちらの方がIQテストでは「正解」とされる)。そうではなくある目的のために両者をどう使うか考えてその点から両者の類似点を引き出すことも(文化によっては)多く、その場合IQテストでは成績が低くなる。

またSATの成績でコントロールされた黒人白人の大学生を集めてGREのテストを受けさせたところ、「このテストはあなたの知能を計るテストです」と告知された場合に限り黒人の成績が悪くなったという研究もあり、ステレオタイプに関わる効果があることも記されている。