まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

なぜ環境問題を考えても経済成長は望ましいのか

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

を読んでいて表題について書いてあったのでメモ。著者は環境問題を考慮したときの経済成長にかんするシナリオとして、次の二つを比べる。

  1. 社会的総生産量を一定と考えるならば、生産技術の効率を上げて、単位生産物あたりの汚染量を減らす
  2. 技術水準を不変と考えるなら、社会的総生産量を下げる(マイナス成長)。

単純な式で書くと、

P=\frac{a}{r_i}\times T (aは0<\frac{a}{r_i}<1となるような定数))

ただし汚染量をP、全生産量をT、単位生産量あたりの汚染量に関わる技術水準をr_iとする(この式はわたしが理解のために書いたもので、著者が書いたものではない)。

(1)を取ると、Tが一定なら、r_iを上げてPの値が少なくなる。(2)を取ると、r_iが一定ならTを低くしてPの値を下げる。

しかし著者がいうには、Tを低くすることは、結局のところ不況にするということであり、失業率を上げるということである。つまり、どうやってTを低くすることと完全雇用を両立させるのかという問題が出てくる。さらに、「r_iを一定にしてTを下げられる」という(2)の仮定にも問題がある。著者は竹森俊平の研究(『経済論戦は甦る』)を引いて、不況になるとイノベーションが起こしにくくなり、r_iの値がよくて横ばいかもしかしたら下がってしまうと主張する。するとせっかく不況というコストを払ってTの値を低下させてもPの値はそれほど下がらなくなってしまう。社会主義国では環境破壊が資本主義国よりもひどかったことにも注意しなくてはいけない。

ここはよい論点で、私見では反(あるいは脱)経済成長派の人はマイナス成長にともなう失業などのコスト(たとえば自殺者の数と景気には強い相関がある)をあまり真剣に受け止めていないような気がするし、マイナス成長下の社会のありようについてプランを出すことはほとんどないように見える(そしてプランを出すのは反経済成長派の挙証責任ではないだろうか)。たとえば西田先生の本『人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ (学術選書)』の終章にはストレートな反経済成長論があったが、失業というコストについては「みんなで給料を下げればよい」と社会的・政治的可能性をやや(だいぶ?)軽視したといってもよい案を出している。こういう考えでは、環境問題の深刻さから脱経済成長をいくら訴えても、そのために失業する人から見ればそういう主張は「金持ちの道楽」にしか見られないだろう。

とはいえ稲葉先生の議論にも疑問もある。普通経済成長といえば社会の総生産、上の式でいえばTが増えることだ。そしてr_iが一定という条件の下ではTが増えればPも増える。これは上の式で成り立つだけでなく直観的にも正しいように見える。そこを上の二分法では、天下り的にTを一定にしている。

この点は、よりベタな経済成長賛成論の主張------(3)「Tは増えてもそれを補うようなペースでr_iがのびていくので最終的なPの値はのびない」------がイノベーションの可能性を楽観視していると批判されるであろうことを考えると重要だ。つまり、著者の議論からすると(1)と(3)の違いは結構クルーシャルに思え、また(1)がほんとうに可能なのか疑問が出てくるところだろうが、著者はアタマからこの選択肢を排除しているからだ*1

*1:ただしこれは反・経済成長派のよく言う「自然の制約を考えると早晩経済成長できなくなる」というのに対応しているのかもしれない。